地震と文化財

立命館大学 土岐 憲三

[目次] [|←先頭ページ] [←前ページ] [次ページ→] [最終ページ→|] [プレゼン資料] [PDF形式] [質疑応答]

■講演内容
  • 内陸地震と海溝地震
  • 東南海・南海地震防災対策推進地域
  • 東海・東南海・南海地震による震度分布
  • 日本近辺の活断層
  • 東南海・南海地震等に関する専門調査会
  • 中央防災会議による地震関係の専門調査会
  • 花折断層による震度分布と東南海・南海地震による震度分布
  • 活断層調査
  • 国宝と重要文化財の分布
  • 24時間震度分布図(2004/10/25-26)
  • 気象庁震度分布図
  • 新潟県中越地方の地震に伴う断層モデルの概念図
  • 阪神淡路大震災で経験しなかった災害
  • 地震(阪神淡路大震災と東南海・南海)と被害の特徴
  • 南海地震・東南海地震・東海地震
  • 20世紀の地震による死傷者数の比較
  • 1900年〜1949年/1950年〜1999年震度分布図
  • 1649年〜1994年震度分布図
  • 地震の発生を確率で表せるか?
  • 京都の地震来歴
  • 活動期にある京都の活断層
  • 京都盆地と活断層
  • 京都盆地の地下構造(南北断面)
  • 京都盆地の3次元モデル/京都盆地3次元地下構造モデルに基づく花折断層による地震動予測
  • 京都の国宝ならびに重要文化財の分布と花折断層による震度の分布
  • 文化財とは?
  • 戦前からの木造家屋の割合
  • 2寺院における消火施設の被災(阪神淡路大震災)
  • 火災が同時多発?
  • 京都が強い地震に襲われたら?
  • 天明の大火(1788)
  • 人口10万人当りの文化財の数
  • 国宝の所在地
  • 京都の国宝木造建造物
  • 京都の世界遺産(17assets)〜京都の文化財の歴史は焼失の歴史〜
  • 指定文化財位置図(建造物)
  • 恥ずかしくないですか!
  • 何が問題なのか
  • 文化財保護の問題点
  • どうすれば守れるか
  • 東本願寺の防火設備の一斉放水(明治30年8月3日)
  • 100年前にできたことがいま何故できないのか?
  • 技術はある、お金もある、無いのはやる気だけ
  • 千本釈迦堂本堂(1227年上棟)
  • 貯水槽・水面公園イメージ
  • 京都市の重要伝統的建造物保存地区
  • 協議会と守る会
  • 文化財防災への取り組み
  • 文化財を地震火災から守る協議会(平成9年10月設立)
  • NPO法人「災害から文化財を守る会」
  • 国による歴史都市防災に関わる取組み
  • 地震災害から文化遺産と地域をまもる対策のあり方(平成16年7月)
  • 文化遺産防災対策事業
  • 消防防災博物館
  • 21世紀COEプログラム「文化遺産を核とした歴史都市の防災研究拠点」(2003-2007年度)
  • 文化遺産防災
  • 社会基盤
  • 文化遺産防災の勧め
  • 3つのバランス
  • イラク国立博物館
立命館大学
土岐 憲三

  • ご紹介頂きました土岐でございます。本日はこのような機会を頂きありがとうございます。タイトルにありますように本日は「地震と文化財」についてお話をさせて頂きます。

    「地震と文化財」ということでありますが、いったい地震と文化財が何の関係があるのだと思うかも知れません。地震と建物であれば耐震の話になると思うのでしょうが、たぶん今まで文化財と地震の関係について関連付けて意識することはあまりなかったと思います。しかし、実はそれが大問題でして、私がこのような話をさせて頂くのもそこのところを意識して頂きたいからであります。

    文化財についてお話したいのですが、その前に地震のことにどうしても触れない訳にはいきません。世の中色々と誤解がありまして、それ故にこういうことを訴えてもなかなかご理解頂けないところであります。それぞれ少しばかりお話しますが、皆様方には「そんなの分かっている」と言われることもあるかと思いますが、少しだけお時間を頂きたいと思います。

  • 内陸地震と海溝地震

    先日来、新潟でも地震が起こっていろいろ報道されておりますが、ご承知の通りあれは内陸の地震であります。一方では東南海・南海の地震が30〜40年の間に間違いなく起こると言われています。基本的にはこの2つは大きく違います。ここを分けて考えないといろいろと誤解が生じて、それ故に判断を間違えることがあります。

    この絵はいろいろなところで良くご覧になるかと思いますので詳しくは申しませんが、これは東北地方でございます。それを断面で見ますとこのように深く潜り込んでいくところで起こる地震と表面で起こる地震の2種類あります。これはご承知の通りです。潜り込むところで起きる地震が海溝型の地震でありまして、東南海・南海地震、あるいは東海地震というのはこのタイプのものであります。一方内陸で起こりますのは、非常に浅いところ(せいぜい地表から20〜30Km位)で起こる地震であります。海溝型は100Km位で起こる時もあります。このハワイの方からやってきますプレート自体が100Kmほどの厚さがあり、この上面で地震が起こる訳です。このように地震には2種類あります。

    内陸の地震というのは、押された結果、地殻の内部でギクシャクとしている、そういう地震です。海溝型は太平洋のプレートと日本が乗っているユーラシアプレートの接点で潜り込んで行く時のズレで起こります。基本的にここのところが違います。このところをもう少しお話させて頂きます。

  • 東南海・南海地震防災対策推進地域

    東南海・南海地震に対して対策を大いに推進することを希望している市町村が全部で650程ございます。当初(昨年9月)、国がこの一部を推進地域に指定すると言ったところ、都道府県知事から「もっと増やしてくれ」という要望があり、増やしました。そして昨年の12月に確定しました。推進地域というのですから、災害対策をしなければいけないのですが、お金が出るのかと言うとお金は出ません。お金が出ないにも関わらず推進地域に指定して下さい、対策推進します、というのはちょっと変な話です。すぐお分かりのように一応お金は出ないことになっていますが、いずれ出るのではないかなぁ、と、どこかで下心を持っていると思います。さもなければ、こんなに沢山手を挙げる訳がないのです。余計なことを言いました(笑)。

  • 東海・東南海・南海地震による震度分布

    この推進地域では対策をすることになっているのですが、その大本のデータと言いますのは、東海・東南海・南海地震が起こった時に、それぞれの地域でどの位の揺れになるのか、をコンピュータシミュレーションして、その結果指定した地域なのです。

  • 日本近辺の活断層

    これは、海の中も内陸も問わず、サイズの大きい活断層をプロットしたものです。ご覧いただくと一目でお分かりのように、旧山岳地帯と近畿地方に圧倒的に固まっています。近畿地方と言っても、中央構造線より北の近畿地方に集中しています。この海の中の地震は、東海・東南海・南海地震を起こす地震であります。一方、内陸地震でありますが、内陸の活断層によって起こります。新潟で起こったのもこの内陸地震でありまして、私が文化財との関係で心配しているのは、内陸の地震です。

    東京にはそんなに活断層はありませんので、こういう話をなかなかご理解頂けないのです。関西では、肌の感覚で活断層を知っている方もいらっしゃいます。神戸の地震の後で、私が一般の方々に講演して討論の時間がありましたら、「うちの前に活断層が走っているのですが、あれ大丈夫でっしゃろか」と、おばさんが質問してきました。私も占い師ではないのですから答えられる訳もないのですが、そういう人達はそういう感覚なのです。ところが日本の国の色々なことを取り仕切る霞ヶ関あたりの人達はそういう感覚を知りません。ですから今日私がこれからお話することもなかなか理解してもらいにくいところがあります。これが実は問題なのです。

  • 東南海・南海地震等に関する専門調査会

    「東南海・南海地震等に関する専門調査会」というのがあります。これは中央防災会議の下にある会です。中央防災会議の座長は内閣総理大臣です。ある種の法的な裏付けのある会なのですが、そこでも東南海・南海地震だけではなくて、内陸地震による被害想定の両方を手がけております。「今手がけております」という言い方をしたのは、実は今私がその座長を仰せつかっているからです。座長をせよと言われた時には「等」というのは付いていませんでした。東海地震に関する調査会というのが先にスタートしまして、少し遅れて東南海・南海をやりましょう、ということで、私が座長することになりました。その時に私は東海地震は東海地震だけで良いかもしれないが、東南海・南海地震と言ったら近畿地方が関わることであって、近畿地方にとっては、東南海・南海地震もさることながら、内陸の地震の方が大変だという場合がいくつもあるのだから、絶対にそれらとセットにすべきだ、ということを強く主張しました。そして名称も「東南海・南海地震ならびに(あるいは及び)内陸地震に関する専門調査会」にしようと言ったのですが、政府の役人は色々論を構えてきます。というのは、東海地震の場合は「東海地震に関する専門調査会」だけで終わっています。地震といえば東海地震、東南海・南海と来る訳ですから、一方だけに内陸地震と付ける訳には行かない、と押し問答になって、結局この「等」ということに押し込められてしまったという訳です。彼等独特のやり方ですが、こういうことで当初から内陸地震に関する理解というのはそれほど充分ではありませんでした。しかし今は随分変わりました。これは3年前の話です。

    新潟で起こったのはまさに内陸の地震です。神戸の地震も勿論内陸の地震ですが、あれはたまたま何100年かに1回の内陸の地震が起こったのだろう、あんなことはしょっちゅう無いのだ、と言っていた人もいますし、皆さんの中でもそう思ってらっしゃる人がいらっしゃるのではないでしょうか。それは間違いです。まさに新潟で内陸地震が起こりました。私がこういう席で言うのはいけないことですが、三十数名の方がお亡くなりになったことは本当に辛いことですし、いまだに避難所生活をされてる方々もいらっしゃいますので、言い辛いことではありますが、長い目・広い大きな意味で見た時に、あのような大きな地震が時々起こった方が良いのです。嫌なことですから皆さん考えたくなくて頭の中で避けて通ろうとするのです。しかし、逃げていてはダメだという警鐘として、あのような地震は時々起こった方が良いのだと私は思っています。

  • 中央防災会議による地震関係の専門調査会

    内陸の地震を取り扱うことがいかに大変な話かと言いますと、先ほど申しました「東海地震に関する専門調査会」と言うのは、平成13年3月に出来て12月にはもう閉じています、他にも中央防災会議の色々な災害関係の会を矢継ぎ早に開きましたが、殆どが一年以内で終わっています。「東南海・南海地震等に関する専門調査会」は、平成13年10月に始まってまだ終わっていません。東南海と南海だけは昨年答えを出しています。なぜ終われないかと言うと、内陸の地震に関して検討がまだ終わらないのです。残念ながら終えられない、でも早くしないといけません。

  • 花折断層による震度分布と東南海・南海地震による震度分布

    先ほど内陸の地震が文化財に対して問題だと申しましたが、どう問題かというと、京都が文化遺産・文化財の密度が最も高いのです。仮に京都だけ見ますと、東南海・南海地震が起こったとしても震度5弱(一部5強)です。先日の新潟の地震でも震度5のところは大した被害はございません。ですから、東南海・南海地震というのは、京都にとっては大した問題ではありません。奈良にとってもそれほど大した問題ではありません。

    ところが、京都には花折断層というのが通っていまして、それが動いた日には京都の町のほとんどが震度6強以上、部分的には震度7になります。いかに内陸の地震というのが大変か、これを考えないと意味ないということをご理解頂けるのではないかと思います。

  • 活断層調査

    我が政府は神戸の地震が起こった平成7年から今年まで10年間かけて約100程の活断層を克明に調べています。これは大変良い仕事をしました。後世に残る仕事だと思います。それは別にして、この近畿地方にたくさん重なって活断層があります。

  • 国宝と重要文化財の分布

    この活断層と、国宝・重要文化財の重なりを地域別に分けた場合、国宝だけに限れば近畿地方に70%が集まっています。この不幸な偶然というか重なりをどうするのでしょうか。この近畿地方には沢山の活断層があり、その活断層のあるところに重要な文化遺産が集中しているのです。この不幸な出来事をなんとかしなくてはいけない、と思うのです。それが今日の主題であります。

  • 24時間震度分布図(2004/10/25-26)

    この図は防災科学技術研究所のホームページから借りてきた図ですが、先日来の新潟の地震であります。余震が起こっている箇所が示されています。余震が起こっているところはそこに断層があったことは間違いありません。そこの断層が動いたわけですが、しかし、図にはその箇所に黒い線が入っていない(断層がない)のです。前もって活断層があったと認定されていなかった所で地震が起こっているのです。そのマグニチュードが6.7とか6.8なのです。神戸の地震は7.2でした。エネルギーにして3分の1か半分近くかもしれませんが、そのような大きな地震が、我々が前もって断層があると知らなかったところで起こっているわけです。これが実は問題でありまして、先ほどの中央防災会議の私どもの委員会で内陸の地震をどうしようか、と悩んでいるところも実はここにあるわけです。

  • 気象庁震度分布図

    この図はまだ委員会で公表していない内部資料でありますが、今日の技術で最も進んだ地震学の知識を借りて、活断層があると分かっているところを動かして土地がどれだけ動くかということをコンピュータシミュレーションした結果です。至るところに震度6強以上が示されています。先日の小千谷でも6強でした。そういうところは日本の至る所に出てきます。しかし、これは断層として認定されているところだけなのです。ところが新潟の地震のように断層があると思っていなかったところで断層による地震が起こっているのです。そのような箇所に一体どれだけのマグニチュードを持つ地震を考えるべきか、ということを我々の委員会で議論を重ねているのですが、その答えがまだ出ないのです。そうしている最中にこの新潟の地震が起こりました。

    マグニチュード6.7。断層があるとは思っていなかった、ということは、最大限に危険を考えるならば、日本中に6.7や6.8の地震を全部貼り付けなければいけないということになります。こうなりますと、日本中全部が6強ということになってしまいます。本当にそれで良いのか、ということになりますし、それだけの対策をするだけの財政負担に国が耐えられるか、ということです。どこかに優先順位を付ける訳にも行きませんから大問題なのです。

  • 新潟県中越地方の地震に伴う断層モデルの概念図

    この概念図で示すとおり、新潟の地震についても断層がどこにどんなサイズでどんな形で起こった、ということも既に大体見当が付いています。

  • 阪神淡路大震災で経験しなかった災害

    少し話が飛びますが、阪神淡路大震災でいろいろなことが起こり、いろいろなことを我々は教訓として得ている訳です。実はあれは非常に特殊な時間帯(朝の6時前)に起こっています。おまけに1月という厳冬期でした。従って、普通であれば災害になったかもしれないことが幸いにも災害にならなかったことが一杯あります。そこから我々のような専門分野の人間も一般の皆様方も災害にならなかったことをこれ幸いとばかりに勉強していません。それは非常にいけないことだと思います。嬉しい話ではないのですから、一般の市民の方々はそれは仕方ないと言えます。しかしその道に生きる私どものような研究者や技術者である者は、それではいけないと思います。起こらなかったことから次に起こることはどんなことかを考えて、そういうことを考えない人に伝え対策するというのが専門家の責任であると思っています。そうでなければ専門家などするな、と私は言いたいです。ではそれだけ偉そうなこと言ってどれだけのことをしているのか、と言われそうですが、私は自分の出来る範囲のことはやっているつもりであります。その一つがこの文化遺産の問題であります。神戸の時には文化財というのは、少なくとも国宝の文化財は失われませんでした。もちろん地域指定のものは幾ばくか無くしましたけれども、国指定の重要文化財はありませんでした。ですから誰も文化財の災害についての問題などは一言も言いませんでした。しかし私は、後で申しますが、京都である出来事が起こってそれをきっかけにこの問題に取組み始めました。神戸の地震で経験しなかったことで大変なことが一つ残っています。その問題を考えるヒントを先日の新潟の地震が教えてくれています。それを我々は今度は逃さないようにしなければいけない、と私は個人的ではありますがそう思っています。

  • 地震(阪神淡路大震災と東南海・南海)と被害の特徴

    これは阪神淡路大震災と東南海の地震とで被害がどう違うかということを単に比較している表ですが、今日は主題が違うので詳細は説明しませんが、一つ問題なのが「時間差を伴う東南海と南海の地震の発生」です。

  • 南海地震・東南海地震・東海地震

    これは東海・東南海・南海の地震について、西暦700年位からこれまでの地震の発生を出来るだけ書いている図です。最近500年の分は正確です。これを見ますと、東南海と南海が別々に片方だけ動いたということは500年来であればまず無いのです。東海地震もそれだけが動いたということはありません。今政府は「東海地震」ばかり言います。そうしますと国民の皆様方はあたかも東海地震が起こって、それから東南海・南海地震が起こるような印象を持ってしまっていますが、決してそのようなことはありません。東海地震だけが起こった例というのは有りません。むしろ東海が起こらなくて、東南海・南海だけが起こったことはあります。

    東南海地震と南海地震が昭和の場合には2年遅れ(1944東南海地震、1946南海地震)でした。安政(1854)の時には32時間差でした。宝永(1707)の時は3連発、3つが同時に起きました。同時と言っても「よーいドン」で動くのではなくて、1箇所から割れ始めてダダーッと伝わっていくのです。そういう意味での3連発です。1605年の地震は2年差だったと思います。その前の1498年のは2週間程だったと思われています。500年間で見ますと5回中4回は同時発生ではなくてズレて発生しています。つまり、1回目の地震が来て、例えば地滑りがギリギリのところで持ち堪えていた、そこへ2回目が来ればもう絶対持ちません。そういう時間遅れで来た時にどういうことが起こるのかということを我々は今まで経験していないので分かりません。昭和の時に経験しているではないか、とおっしゃるかも知れませんが、終戦の1年前と終戦の直後で世の中てんやわんやしている時代に地震の分析など誰もしていませんし、データすらどこにも残っていません。安政の頃からのデータなど残っている訳が無いので、我々にとっては2つの大きな地震が時差を持ってやって来るということは、経験が無いのです。1つだけ起こるより非常に怖いのです。それが今度の新潟の地震が教えてくれているのです。

    神戸の地震の場合には震度7あるいは6強、その次の余震が高々震度4なのです。あとは数は多いのですが極小さい地震ばかりでした。ところが今度の新潟は震度6強が3回位でしたでしょうか、マグニチュードも6.7、6.5、6.3位でしたでしょうか。似たような地震がドンドンドンと起こっているわけです。ですから1回目、2回目、3回目の間に何が起こっていたのか我々は本来きちんと調べないといけないのです。そうしないと間違いなく3回まとめて全体としてどうだったのか、という話しかできなくなってしまうのです。

    先日も小さな女の子でしたがお風呂にお婆ちゃんと入っていて、女の子はお風呂から上がって、お婆さんが「早く着る物を着て出なさい」と言って、お孫さんが服を着ている間に次の地震が起こって亡くなったという話がありました。お婆さんは「サッサと出なさい」と言わなければ死ななかったのに、と、まさしく時間差があったからの事故でした。あるいは2回目が小さければこうはならなかったのです。そういう時間差でくる地震の被害を我々は新潟の地震から学ばなければいけません。

    学ぶことが次なる東南海・南海地震に関して備えになるのです。何故かと言いますと1日や2日の差で、東南海だけが起こって南海地震が起こってない場合でも、あとで必ず起こります。ではいつ起こるのか、それは分かりません。そのような時に、危険防止に東海道新幹線を止めておこうとした場合、1回目の地震で大きな被害が無ければ1、2日なら止めていられるかも知れません。しかしそれが1ヶ月や半年など止め続けられる訳がありません。そんなに長い間、社会的緊張感を持てないです。ではその間どうすべきなのでしょうか。必ず時間差で地震は来るのです。東南海だけが起こって南海地震が起こらなかったことはかつて有りません。絶対に来るのです。ですから、このような地震が起こった時に、時差がどれ位で来るか分からない、その間どうするのか、というのは本当に大きな社会問題です。そのような状況を皆さん頭の中で想定して頂いたら良いと思います。すぐ分かると思います。そのことを実は新潟地震から大いに学ばないといけないのです。

    どうも説教臭くて申し訳ございません。今日も折角の機会を与えて頂いて講演させて頂いているのですが、私はどうもこの文化財の話になると、皆様いろいろな方に言うのですが、言葉は丁寧だけれども一種の脅しだなぁ、と思っているのです。これを理解しないと頭の程度が低いみたいなことを匂わせているらしいのです。口の悪い人間は私にこう言います、「あれ脅しやぞ」と。しかし私はそれで良いのだと思っています。まだ本題に入っていません。これからです、本題の脅しは。(笑)

    内陸の地震が大変だと先ほどから申しておりますが、それは本当なのか、と思ってらっしゃる方もいるかと思いますが、決して嘘ではありません、本当なのです。

  • 20世紀の地震による死傷者数の比較

    20世紀100年間で見ますと人的被害だけ比べても決して内陸地震の方が小さいということはありません。同程度かもしかしたら大きいかもしれません。しかし実感と違うでしょう。それは関東から来ておられる方々は勿論それほど実感無いと思いますが、関西の方にとっても恐らくまだ実感が無いのでしょう。

  • 1900年〜1949年/1950年〜1999年震度分布図

    最近50年を比較しますと、神戸の地震以前であれば、マグニチュード6を超える地震は2回しかありません。6.2というのは真下で起こっても大きな災害になりません。新潟は6.5や6.8ですが、6.2でしたらまず大丈夫です。ということは50年間関西の人は神戸の地震以前には6.9の越前岬地震の1回しかないのです。50年間で1回しか無いのです。ですから神戸の地震の前に「関西に地震なんて起こる訳ないよ」と皆さん思っていたのは仕方ありません。しかし私は、本当はそれではいけないと思っています。それは何故かと言うと、その前の50年間を見ると、1944年と1946年に東南海と南海地震がマグニチュード7.9や8.0で起こっています(神戸の地震が7.2、新潟が6.8や6.9)。また、7.1や7.2、6.8、などたくさんの大きな地震が50年間起こっているのです。それらの地震が50年間のうちいつ起こったのか、1925から1943年の18年間です。昭和の東南海(1944年)の1年前から18年前の間に立て続けに起こっているのです。このことを是非頭に残して頂きたい。関西はこのパターンを繰り返しているのです。この地震は、冒頭で申しましたように、プレートが落ち込んできてその歪で地震を起こしているのです。この地震というのが120〜130年に1回、100年位のインターバルで繰り返しているのです。

  • 1649年〜1994年震度分布図

    ここ30年間は非常に静かで、地震も殆ど起こっていません。その前の70年間はしょっちゅう地震がありました。先ほどは50年ずつで比較しましたが、このように70年と30年で切ってみるともっとよく分かります。

    過去350年間を70年、30年で切ると(最初は70年、70年ですが)、活動期と静穏期を繰り返しています。直近の100年間だけではないのです。決して偶然ではないのです。従って我々は次なる活動期に差し掛かっていることを認識しないといけません。一般の方々にこのようなことを言っても嫌なことは考えたくないですから、今私が話をしている間はそうかと思っても部屋を出たら忘れてしまいます。しかし、皆様方は決してそうではないはずです。それなりのそれぞれの分野で指導的立場にある方々のはずです。ということは、嫌なことから逃げていたのでは指導者になれないはずなのです。嫌なことにどうやって立ち向かっていくか、ということを常に意識されてこられたはずですから、このことも是非頭の中で逃げないで留めておいて頂きたいと思います。

  • 地震の発生を確率で表せるか?

    内陸の地震と南海トラフの地震で決定的な違いがあります。それは発生の頻度であります。この頃、政府が活断層を調べた場合に「発生の確率」ということを言います。私はあれに絶対に反対です。私は強く政府の委員会にも言いますし新聞にも書いたりしていろいろなところで反旗を翻しています。私どものような研究や技術分野の人間の中には私の言っていることへの賛同者がだんだん増えてきています。しかし政府はなかなか変えません。皆様方はたぶん私に賛同して頂けると思います。地震の発生を確率で言っても構いません。南海トラフで起こる巨大地震、海溝型の地震については良いでしょう。何故かと言うと、1200年前から南海地震だけでしたら10回程起こっています。100年〜120年位の間隔で割合きちんと起こっています。そうしますと過去500年くらいに絞っても5回位は起こっています。このようなデータを背景にして、これから100年間にどれだけ確率が増えて行くかというのは、確率を当てはめてもまあ良いでしょう。

    ところが内陸の地震は1桁違うのです。2000年、3000年に1回、5000年に1回の世界なのです。この図は1万年の間に2回あったという図なのです。このたった2つのデータに基づいて、政府はこれから100年間あるいは50年間の発生確率を言っているのです。それは2〜3%になることは決まっています、小学生でも分かる話です。つまり、確率を出しても構いませんが、これから50年間の発生確率が3%とか0.数%とか言われたら誰も対策をしないでしょう、ということです。明日の雨の確率10%と言われて傘を持って行く人はよっぽど用心の良い人です。翌日の天気予報10%でもどうかと言う時に、50年間の確率が2%とか0.1%とか言われたら、皆「あぁ良かった、何も対策しなくて良い」ということになります。

    京都市の防災会議という、市長さんが召集する会議がありまして、そこの地震対策委員会の委員長をしているのですが、ある時に関係する局長さん達が集まっている会議がありました。その時にある局長さんから質問がありました。生駒の断層の地震が0.数%と発表があった時に「京都の地震もその程度でしょうか」と言われましたので、私は「多さとしてはそんなものでしょう」と言ったら、局長さんが「ああ、この財政多難の折から、もうやらなくて良いということですな」と仰られたのです。その人の立場になれば良く分かります。しかし国がそんなことを言って良いのか、と思います。活断層の調査を10年かけて本当に良い成果を出しています。それが、この数字(0.数%)だけいうともう対策しなくて良いと言っているのと一緒です。それは違うでしょう。確率を言う時は2つを分けて言うべきと私は思うのです。どちらを皆さんはお取りになるでしょうか。少なくとも確率という時にはラージナンバーと言いますかトライアルはいくらもあると言うことが大前提にあるはずです。たった2〜3回のデータで確率なんて言うのは本当はおかしいと思います。それを国家の名前において出すということは国民を愚弄しているのではないかと私は思っております。

  • 京都の地震来歴

    京都の話にだんだん入って来ますが、1200年の間に震度6になったのが13回あります。その最後は1830年です。それから170年経っています。まだあと100年やそこら大丈夫、という人もいるかも知れませんが、よほど気楽な人でしょう、長生きしてください、皆さんに嫌がられながら。

  • 活動期にある京都の活断層

    これは京都のもう少しサイエンティフィックな図ですが、南海地震が起こるのに先立って京都・奈良・近畿地方で活動期があって京都に影響を及ぼすM7クラスの地震が歴史的に起こっています。先ほど申し上げましたが、我々は既に活動期に入っていると言うことを再度申し上げておきます。この後、鳥取県西部で地震がありました。あれは山の中でしたので死者すらありませんでした。ところがマグニチュードは7.2で神戸の地震と全く同じサイズなのです。それがもっと南に来たらどうなるのか、ということです。

  • 京都盆地と活断層

    京都は活断層で出来た街なのです。活断層が嫌い、地震が嫌い、という人は京都に住むのを止めた方がよろしいです。山口県に行きなさい、と私は言っております。山口県は活断層も地震も滅多に無いところなのです。皆さん、隠居して地震が嫌でしたら山口県がよろしいですよ、今から土地を買い占めておくと良いかもしれません(笑)。

  • 京都盆地の地下構造(南北断面)

    国は京都だけでなく大都市の地下構造を、活断層調査と同様に大変なお金を投じて調べました。その成果として京都の北山(北王子)から京都駅の辺りを通り、名神、宇治川を越えて小倉池の辺りまで地下構造がどうなっているかを克明に調べました。その中には花折断層という巨大な断層があるのですが、この断層が一番怖い断層です。

  • 京都盆地の3次元モデル/京都盆地3次元地下構造モデルに基づく花折断層による地震動予測

    これが動いた時に京都盆地がどう揺れるかというのを、データを使って3次元の地盤モデルを使ってコンピュータシミュレーションしました。断層が動きますと、断層が止まった後、地震波がどんどん下って行って、岩盤が深いですから地震の波が行ったり帰ったりします。反射屈折を繰り返して長い間揺れているというシミュレーションの結果を得ました。

  • 京都の国宝ならびに重要文化財の分布と花折断層による震度の分布

    その結果、どこがどう揺れるかというと、花折断層の辺り、平安神宮や清水寺がありますが、全てが震度7です。神戸の地震で6400人の方が命を亡くしましたが、その方々の殆どが震度7のところでお亡くなりになっています。その位の揺れが京都の東の方に集中するということです。それから、震度6強のところも多々あります。先日の小千谷の地震が震度6強です。あの揺れが京都の街の真中を殆ど全部覆ってしまうということです。この揺れの所に国宝が重なって在ります。世界遺産がここに重なっているのです。これをどうするのですか、ということなのです。

  • 文化財とは?

    文化財と言いますが、いったい文化財とは何でしょうか。文明と文化というのが時々混同されるようですが全く違います。文明と言うのは物質的な活動の所産であり、文化と言うのは精神的な活動の所産であります。そこのところが根本的に違います。神戸の後の復興は5年間で済んだと言いますが、多くの場合は文明の復興のことを言っているのでしょう。もちろん文化財も無くしているのですが、京都の場合は文明もさることながら文化財を無くしたのであれば復興ということは在り得ません。在り得ないのであれば、前もってそういうことの無いようにしなくてはならないのではないでしょうか。

  • 戦前からの木造家屋の割合

    木造家屋の割合は、戦前からの家屋を調べますと神戸は7%位ですが、京都は倍以上なのです。更に先ほどよく揺れると申しました東山になりますと更にその倍位なのです。神戸の数倍、古い木造家屋は京都に集中しているということです。

  • 2寺院における消火施設の被災(阪神淡路大震災)

    仁和寺や醍醐寺、この2つのお寺では、神戸の地震の時に60〜80Kmも離れたはるか彼方の地震で消化施設が壊れたのです。京都は殆ど被害ありませんでした。しかし、たった2つのお寺でこのようなことが起こっただけですから皆誰も気にしてはいません。私は地震災害、地震工学というのを専攻しているせいだと思いますが、これが非常に気になってしまいました。

    京都で地震が起こったら全部もたないでしょう。殆どの場合が、タンクは裏山にあったり地下にあったりして、タンクから地下の放水場まで地下のパイプで引っ張っているのですが、パイプは非常に弱いものです。最近のものは良くなりましたが、古いお寺、立派なお寺ほど古い時代からそういう施設を持っていますからそういう技術が無いままのパイプがすぐに切れてしまいます。ですから京都で地震が起こったら絶対もちません。

  • 火災が同時多発?

    この写真は京都盆地です。東西12〜13km、南北14〜15Kmしかないこの盆地に国宝の建造物と書画だけでもたくさん散らばっているのです。ここに同時多発の火災が起こったらどうなるか、と考える訳です。

  • 京都が強い地震に襲われたら?

    それは火を見るより明らかです。「地震で火災が起こるのか、あまり聞いたことないけど。」とおっしゃるかも知れません。事実あるのです。この写真は、昭和23年の福井地震で街が丸焼けになってしまった時のものです。福井陵のお城のお堀も見えます。街の真中は完全に焼け野原です。昭和23年のことですから日本の中小の都市は爆撃でどこもかしこもこんな感じでした。ですから福井のことなど皆さん頭に残っていないでしょう。私も恥ずかしながらよくは知りませんでした。福井地震の被害その他は調べますが、火災でこうなったということまでは知りませんでした。この写真というのは、所謂GHQ、元の進駐軍から割合最近10年程前に出てきた写真なのです。それほど昔からあった写真ではないのです。これは地震でこうなる、という1つの例なのです。当時の福井と今の京都と、どちらが燃え易いのでしょうか。どちらが火に対して安全なのでしょうか。「今の京都の方がはるかに燃え難いよ」と自信持って断言できる人がいるでしょうか。私は逆だと思います。

  • 天明の大火(1788)

    京都は火災の長い歴史を持っています。天明の大火というのが僅か220年前でありますが、南座のところから出た火が、鴨川から千本通り(二条城の裏側)、北王子の少し南(昔の市電が走っていた辺り)、それから西本願寺と東本願寺まで進んで、そのすぐ北側で焼け止まっています。これだけの範囲が焼けてしまったのです。当時の80%だそうです。それと1000程の神社・仏閣が焼けたそうです。1000というのは、私は嘘だと思うのですが、嘘八百と言いますから800を越えた物は信用しない方が良いのです。しかし、100や200では済まなかったかも知れません。これだけの火災が起こりました。

  • 人口10万人当りの文化財の数

    京都を文化遺産という観点から見たらどうなのでしょうか。人口10万人当りの密度で言いますと、神社・仏閣の密度は、京都は他の街の高々倍でしかないのです。そんなに神社・仏閣がある訳ではありません。というのは、たくさんあったはずなのですが、全部焼けてしまったのです。先ほどの1000というのは大袈裟かも知れませんが戦乱が何度も何度もありましたから焼けてしまって、そんなに多くは残っていません。

  • 国宝の所在地

    ところが国宝重文という我々にとって貴重な物を持っている割合というのは圧倒的に京都が高いのです。先ほどは密度でしたが、絶対数で比較しますと都道府県別の御三家は京都、奈良、東京、です。建造物は東京にはたった1つしかありませんが、殆どの方がご存知ありません。東村山にある小さなお堂なのです。殆どの人が東京23区のどれかな、と考えるのですが全然違うのです。また、東京の場合は書画や書籍という物は美術館や博物館に入っています。比較的安全です。一方奈良はどうでしょうか。奈良は建造物が60いくつかあります。ところが斑鳩とか飛鳥とか色々なところに散らばっています。それを取り巻く集落というのはそれほど大きい物ではありません。法隆寺にしてもそうです。一箇所京都だけが14〜15Kmの盆地にひしめいているのです。どこから見ても京都が一番危険性高いです。私が決して京都の大学にいて京都に住んでいるから京都のことを言っているのではありません。客観的な事実に基づいてお話しているつもりです。

  • 京都の国宝木造建造物

    いかに京都にある文化遺産が危機に面しているか、危機に「瀕」しているではなくて、「面」しているか、です。危機状態にあるか、それはこの国宝木造建造物の配置を見てください。一番南にあるのは宇治の平等院です。南の方は言わないにしても、北の方に先ほどの天明の大火で燃えたところの範囲を入れます。実は残っているのは西陣や東山が少し燃え残ったのと、二条城です。二条城はご存知のように堀が取り巻いていて建物まで距離がありますので、そういう特殊な環境を除きますと、220年前の天明の大火の中には国宝の建造物は何もないのです。「燃えたら無いに決まっているではないか、何をバカなこと言ってるんだ」と仰るかも知れませんが、そうではありません。180度とは言わなくても90度ひねって考えてみてください。今あるものは天明の大火の時に幸いにも火が行かなかっただけのことなのです。何かの都合で風向きでも変わったら他も無くなっているはずなのです。今あるのは燃え残りなのです。世界中から、日本中から、京都に文化財を見にくる人が年間4000万人程度いるらしいですが、殆どの人がそんなことは考えていません。今我々が目にしているのは昔からそこにあったと思っているのです。

  • 京都の世界遺産(17assets)〜京都の文化財の歴史は焼失の歴史〜

    もう少し違う見方をしますと、古都・京都ということで17個ひっくるめて世界遺産ということになっているのですが、この京都の盆地にある中で今だかつて焼けたことのない物がどれだけあるでしょうか。どなたもご存知なのが比叡山延暦寺、これは信長にやられましたから、勿論焼けた訳ですが残っています。多くのものは過去に火災を被っています。京都駅の新幹線から南側に五重塔が見えますが、あの五重塔などは5回も焼けているのです。焼けては作り直し、焼けては作り直しています。清水寺は20回位火を被っているらしいです。奈良の法隆寺などは火を被っていません。先日新聞で書いてありましたが、創建後すぐに5年か10年頃に燃えたらしい、いやそうじゃない、などと議論になっていましたが、それ以降はずっと火を被っていないのです。ある意味京都にやってくる多くの人が皆、今目にするものが昔からずっとあると思っています。皆様方も思い当たりませんか? 金閣寺が燃えたことは皆さん誰でも知っています。しかしその他の物はずっとあるんだろう、と思っているかも知れませんが、我々が日頃親しんでいて火を被っていない物は銀閣寺だけなのです。殆ど全部が火を被っていると言って良いのです。

  • 指定文化財位置図(建造物)

    この絵は明治22,23年頃に陸軍かどこかの軍隊が作った京都盆地の人の住んでいるところです。我々が今京都の街で見ているところは、たった110年前の明治では全て田んぼだったのです。更に先ほど紹介した天明の大火の場所を重ねますと、天明の大火の時も西陣は残っています。東山の祇園町や東山辺りも残っています。ということは、天明の大火の220年前と、明治の110年前と、人が住んでいたのは殆ど同じです。ところが110年前の明治22,23年頃から今現在の間に爆発的に人が増えて住み始め広がりました。何を申し上げたいかと言いますと、明治の頃はどこから火が出ても火を運んでいく材料が無かったのです、田んぼしかないのですから。今はどこから火が出てもいくらでも火を運ぶ材料がびっしりあります。110年前とは全く状況が変わっています。このことをも考えなくてはいけません。

    このように申しますと、「過去の人が燃えた物を作り直したのだから、これからも作り直せば良いじゃないか」と仰るかも知れません。しかし、これからは出来ないです。何故かと言うと、昔は文化とか、あるいは目に見える文化財というのは、権力者の物でしかなかったのです。文化や文化財というのは、一般の民の物ではありません。従って、それは無くしたとしても権力者が寄進をしたり修復をしたりして直してきました。あるいは、宗教的権威がお金を集めてきて作り直したのです。今の日本に権力者というのはどこにいますでしょうか。権力者のように見えるのは小泉さんかも知れませんが全く逆で、非権力者です。作り直すことなど出来ません。おまけに1つ2つなら何とかなるかも知れませんが、私どもが心配しているような地震が起こり大火事が起こっていろいろな複数の物を無くしてしまった場合には、絶対に修復できません。京都には、重要なお寺や神社、国宝がいくらでもあります。それらは修復出来るはずがありません。ですから、昔は作り直せたかも知れませんが、これからは絶対に無くしたら作り直せません。殆どの物は権力者がいないということを考えなくてはいけません。

  • 恥ずかしくないですか!

    従って、これから私の繰言になりますが、もし我々がこれらの文化財を無くしたら、爆撃を控えたというアメリカ人が我々を軽蔑するに違い有りません。今の日本人は、毎日美味しい物を食べて、良い洋服を着て、良い車に乗っているから、それで満足する人生に成り下がったのではないか、と言われるでしょう。昔の人の方が立派だったのではないのか、と言われた時に言い返す言葉がありますでしょうか。そのような軽蔑を受けてどう振舞えば良いでしょうか。人間何が辛いかと言えば人に軽蔑されること程辛いことは無いのではないかと私は思います。私はそういう軽蔑を受けたくない、という思いでこのような問題に10年間取り組んでいます。

  • 何が問題なのか

    日本の国は手をこまねいていた訳ではありません。文化財・文化遺産を災害から守るために、火から守るために営々とやって来ています。それは否定しません。何が問題かと言いますと、それは境内であれば境内の内側から出た火を本堂に燃え移さない為にどうするか、ということをやってきたのです。その為には火が出た場合にまず消防自動車が必ず来てくれることを前提に、それまで自力で消化するのに必要な水だけを裏山や地下に溜めれば良いということなのです。15〜20分頑張れば良い。あの清水寺でさえ600トンの水しか持っていません。それは消防自動車が間違いなく来てくれるからです。ところが地震の時には来てくれません。火災は同時多発なのです。あるいは来ようとしても道路が通れないこともあります。結局は自力で蓄えてる水では足りないのです。そこが問題なのです。

  • 文化財保護の問題点

    そのことについて、私は独り善がりで言っているのかと言いますと、決してそうではありません。そういうことをいろいろなところで訴えますと「お前の言うとおりだ」と言う人が出てまいりました。文化財の専門家中の専門家です。国立奈良文化財研究所の前所長の鈴木さんなのですが、「文化財保護の施策では地震に伴って発生する大規模火災への対応がスッポリ抜け落ちている」と、私どものNPOの機関紙に文字で書いておられます。

    あるいは、3年前でありますが、国の責任者に、皆さんにお見せしているのと同じようなパソコンの絵で説得したところ、「今まで日本の国でやってきたのは内なる火に対する対策である。ところが外からの火で条件が違う。そのような新たな条件が加わったのであれば、対策しなければならない」といわれました。国の責任者が認めているのです。決して私の独り善がりではありません。

  • どうすれば守れるか

    では、どうするのか、具体的な施策はあるのか、ということです。勿論私は京都のことだけを考えているのではありません。一つとして京都のことを申し上げているのです。実は明日は奈良へ行って奈良県知事にお目にかかって、奈良にも今日申し上げているような運動を起こしていろいろな施策を作ってください、という話をする約束をしております。取りあえず今日は京都だけの話にさせてください。京都市民150万人の水は全て琵琶湖疎水を通じて京都に来ているのですが、その水を利用したらどうかということです。この水が高台に着くので、高台の水を利用して必要な時に水のカーテンを作ったらどうかと、私のアイデアでありました。「ありました」と過去形で言っているのは、恥ずかしくなったからです。

  • 東本願寺の防火設備の一斉放水(明治30年8月3日)

    ある日、まだ京都大学の研究室に居た頃ですが、ドアを叩いて知らない人が訪ねて来てくれました。「先日あなたの講演を聞いたけれども水のカーテンというのは既にあるよ」と言われました。私は非常に恥ずかしい思いをしました。自分のアイデアだと思っていたら何のことはない100年前に東本願寺さんがやっているのです。琵琶湖疎水を作った時に、あれは京都府がやっているのですが、その時にその水を東本願寺さんが頂いて、遥々フランスから輸入した鉄管で蹴上から地下を延々とパイプを引いて、祇園町、鴨川を渡って、東本願寺まで水を引いてきて、通水して、ということを100年前にやっているのです。まだその頃日本は土管やヒューム管だったと思います。それに対して私は思い付きです。100年前には実際にやっていたのです。この差というのは天と地の差があります。それから私はこの話はあまりしなくなりました、と言いながら話していますが。(笑)

  • 100年前にできたことがいま何故できないのか?

    その水は今も生きています。ご存知でしょうか、京都駅前の烏丸通りを北に行きますと東本願寺の前で道が2つに分かれています。その中ノ島のところに蓮の葉の形をした噴水がありましてバルブを開ければ水が出るのです。さすがに鉄管が錆びていますから圧力も上がりませんので当初のような使い方は出来ませんが、地下に水を溜めていてその水を使う為に今も使っているのです。そういう意味ではこのシステムは今でも生きているのです。

  • 技術はある、お金もある、無いのはやる気だけ

    悔しいじゃないですか、100年前にやったことが何故現在の我々に出来ないのでしょうか。私は琵琶湖疎水があるのだから、これなら出来ると思いついて「これはしめた」と思ったら、先にやっているのです、愕然としました。確かに昔は動機が良くてお金があったら出来たのでしょう。今は物事の決定のプロセスがそんなに簡単ではなく、いろいろな手続き手順があり、いろいろな人が勝手なことを言います。しかしそれにしてもおかしい。技術は私どもにもあります。地下に敷くパイプが、1mから2mに変更になっても大丈夫なだけの材料があります。お金も京都の街をすべてやっても、数千億です。私がこの話を始めた頃に世の中を騒がせていたのが例の住専で、住専に6800億円を注ぎ込むかどうかと言っていました。私は「その半分くれたらなぁ」と講演で言っていたのです。あのお金は結局何にもならなかった、あのお金を京都に持ってきたらアメリカ人に馬鹿にされずに済んだのです。ですからお金は大したことはないのです。無いのはやる気だけなのです。この際、皆が「やろう!」と言えば出来るのです。大したお金ではありません。

  • 千本釈迦堂本堂(1227年上棟)

    この写真は京都の盆地にある最も古い国宝の木造建造物です。せめてこれ位は守ろうよ、と言っていたのですが、これも大変です。細い路地の両脇が1件1件民家です。ちょっと愕然とします。これだけギッシリ家があってこんなに迫っているのです。奥にあるのが最も古い国宝の木造建造物の屋根です。消防自動車は絶対に来ることが出来ません。どうするのでしょう。

  • 貯水槽・水面公園イメージ

    そこで、私どもは近くの公園に1万トン程の水、お寺のお堂の地下に200トンの水は持っていますが、200トンの50倍の水、1万トンのタンクを作ったらどうかと考えました。そして水のカーテンを作って、火が来たら水のカーテンで守ったらどうか、と技術的な検討もして一応の提案をしています。しかし、まず出来ないです。この周辺の人々が「あんたらお寺だけ守ってそれで良いのか」と必ず言われます。ではどうするのか、という話になります。では広いところまで一緒に守れば良い、とんでもないお金になります。どうするのでしょうか。何とかしなくてはなりません。

  • 京都市の重要伝統的建造物保存地区

    京都には重要伝統的建造物保存地区というエリアがいくつもあります。

    例えばその1つの産寧坂(さんねいざか)ですが、ここでは点ではなくて面として守らなくてはなりません。これまた大変なことです。さらに景観・美観を損ねるような不細工な消化栓など置けません。そうなると、例えば日頃は何も見えず、一丁あるときにはどこかのバルブを開けると(バルブというのは、地震の直後は電気が取れませんので、水の高低差でも利用して最もプリミティブな物の方が信頼度が高いという意味です)、水圧を上げて水を掛ければどうだろうか、とこのような物も可能性としてお話しているのですが、いずれにしても我々にはもう時間がありません。

    先ほどから申し上げていますように、東南海・南海の地震が30〜50年以内に来る、その前に内陸の地震が来るのです。途中ご紹介しましたが、近畿地方に1900〜1950年位までにあった内陸の地震は全て近畿地方の北、日本海に近いところなのです。1回起こった地震は数千年起こりません。ですが、全体としては繰り返すので今度は南の可能性が高いのです。南と言っても和歌山から北なのです。そうすると、それこそ大阪・京都・奈良なのです。時間がないのです。

  • 協議会と守る会

    そこで最終的には政治判断、行政行為になります。これを動かす為には多くの人の理解がいるということで、このサイクル(多くの理解と賛同→メディアによる広報→更に多くの人々の理解と賛同→政治判断と行政行為→実現)を早く回さなくていけません。そこで、協議会なるものを作ったり、色々な運動をして参りました。

  • 文化財防災への取り組み

    昨年、今年辺り、ようやくこの問題に関して官・民・学で少しずつ歩みが見えるようになってきました。少し現況をご紹介したいと思います。

  • 文化財を地震火災から守る協議会(平成9年10月設立)

    神戸の地震が平成7年であります。ですから2年経った後に、世に何がしかの発言をして下さる方々にお願いをして協議会というのを作りました。この人達が別に何かしてくれる訳ではありません。要するに我々が言っていることに対する名刺の裏書みたいな物で、自分達も理解してます程度のことでしかありませんが。

  • NPO法人「災害から文化財を守る会」

    更に、一般の方々にお話していると「自分達にも何か手伝わせろ」という方々も来て下さいました。そのような方々を集めて任意団体を作り、その後NPO法人に変えました。このNPO法人も京都に留まって京都の事だけを内々で言っているだけの物ではないつもりです。昨年の3月には京都を中心として水フォーラムというのがあったことをご記憶だと思いますが、その時にはユネスコ、フランスの水アカデミー、日本の民博、それと私どものNPO法人、この4つが一緒になって実施しました。私どもとしては文化財を災害から守る水の文化、という視点からの参加でありました。ユネスコなどは、災害ではなくて文化財と水は切っても切れない関係にありますので、そういう視点で1日のセッションを一緒にやって参りました。

  • 国による歴史都市防災に関わる取組み

    次はお役所ですが、お役所も少しずつこのような問題に関心を示してくれるようになりました。昨年の6月に、内閣府が「災害から文化遺産と地域をまもる検討委員会」というものを組織しました。私が高く評価したい、ありがたいと思ったのは行政担当委員です。一番は、この問題に関わり合いそうなお役所の人々が集まってこの問題を議論出来たということであります。そして結局1年経って今年の7月に報告書を作りました。

  • 地震災害から文化遺産と地域をまもる対策のあり方(平成16年7月)

    その報告書の中身というのは、言うなれば理念を謳ったものであります。「こういうことが重要ですよ」ということを国として初めて文言に書いた訳で、これは大変な進歩でありました。しかし、それよりも何よりも私どもにとって非常に意義があったと思いますのは、この報告書の末尾に1頁のものなのですが、別紙というのがありまして、その中に次の文言が入ったことです。「地震災害から文化遺産と地域をまもるための今後の展開について」という表題で、「関係省庁はこういう取り組みをやっていきます」、「防災基本計画の中に文化遺産という言葉を入れて対策を書きなさい、対策を考えなさい」、更に「各地でいろいろな文化遺産を災害から守る」、特に地震災害に重きを置いていますが、こういう事業を興してそれを国が支援して行きましょうということを文章で書いたのです。最後のたった1頁ではありますが、国の行う委員会に、このような付記という形で国が意思の表明をするというのは滅多に無いことなのだそうです。これは私ども10年近くやっておりますが、非常に大きな成果だと思っています。

    私が勝手に言っているのですが、これは水戸黄門の印籠みたいな物です。「これが目に入らぬか」と言って「やりなさい、やってください」と言って回ろうと思っています。大変大きな1歩だと思います。私自信にとってみれば、最初「放っておいたら大変だろうなぁ」、「だけどこんなことを言っても誰も相手にしないだろう」と思いながらも、ついついどうしても気になるし、災害の研究に関わった者の、格好良く言えば一種の責務みたいな思いでこのようなことを始めた訳ですが、言うなれば止まっている蒸気機関車を素手で押しているような気分でした。全く押しても引いても絶対動かないけれども、やっているといろいろな人が見かねて助けてくれたり一緒に押してくれたり、あるいは力の強そうなやつをよそから呼んで来てくれたりして、ようやく昨年、今年になって機関車が1〜2cm動いたかなぁ、という感じです。ようするに国がこういう問題の意義を認めて、そして具体的なこともやりましょう、やらなければいけない、ということを言い出した、ということであります。

  • 文化遺産防災対策事業

    その1つの成果が出ておりまして、つい数日前ですが、先ほど申しました清水寺、産寧坂、その辺りの地域住民の方々に集まって頂きました。地域ならびに文化遺産を地震災害から守るためには何をすべきか、何をして欲しいか、ということを地元の住民が言い出さないことには絶対国はやってくれないのです。やんややんや言い続けてきて、国は「重要なことは分かった」とようやくそこまでは来たのですが、本当はそれから事業をやって貰わなくてはいけない訳ですが、その為には何百億、何千億かは知りませんがそういうお金がかかるのです。そのお金を財務省から出すためには誰かがやんややんや言わないと絶対出てきません。その言い出しっぺは地域住民のあなた達ですよ、ということで集まって頂いたのです。その結果を自治体に(京都なら京都市や京都府ですが)持ち込まなければいけません。その時に私どものNPOでは技術者の仲間、宣伝広告マン、テレビ局のお嬢さん、色々な人間が一緒になって活動しているので、そういう人たちが自分達の得意技を持ち寄って、地域住民が案を作るのをお手伝いします。それを自治体に持ち込んでください、それを持ち込めば今度はそれを国に対して要望して国が予算をつけます、そうして事業を行います。この段取りでなければならないのです。この集まりを数日前にやったところであります。

    このような動きは実は国から支援してもらっています。僅か数百万でしかありませんが、国が私どものNPOに調査費としてお金をつけてくれました。国の機関、お役所が我々のNPOに300万円位だったと思いますが、とにかく調査費ということで、地域住民の人たちが案を作るのをNPOが助けてあげなさい、というリンケージが回り始めたのです。極々細い髪の毛一本位のものでしかありませんが、回り始めたということであります。これを何としても絶やさないで、段々太いものにしていかなくてはいけません。これを止めれば途端に国は止めてしまうと思います。これは国のしかるべき官僚のトップに近い人から言われました。「10年間やってきたことを国がようやく動き始めたからと言って手を止めたら絶対に止まってしまうよ、10年間が無駄になってしまう、全部止まってしまう」と言われました。是非皆様方にもこういう状況をご理解頂いて、どこでどういう形かは分かりませんが、是非お力添えを頂きたいというのが私のお願いであります。

  • 消防防災博物館

    一方、国の消防庁なども理解を示してくれておりまして、消防庁に関わる外郭のセンターがあるのですが、そのセンターと私どものNPOが協力しまして、10分程のCDを作ってそれを消防庁のバーチャルミュージアムという所にアップロードしてあります。誰でも見られるようになっています。私が今日お話したことの意義を、お時間があれば消防庁のミュージアムから閲覧して頂ければ幸いです。少なくとも瀬戸内寂聴さんの話は聞けます。彼女の話は面白いです。最初にNPOを始めた時に、彼女に副会長をお願いして、ついでに講演もしてくださいと言ったら喜んでやってくれたのですが、その時の聴衆は300人位でした。「これでは物足りないわねぇ、私は3000人位いないと」と言われてしまいました。

  • 21世紀COEプログラム「文化遺産を核とした歴史都市の防災研究拠点」(2003-2007年度)

    私は官・民・学の「学」に籍を置いています。立命館大学にCOE(国が認定した研究拠点)を認めてくれまして、色々な分野の人が集まって研究を行っております。詳しい中身のことは申しません。そこで、研究を推進する場として「歴史都市防災研究センター」というものを作りました。本日パンフレットを持って来ています。決してセンターを宣伝しようというつもりではありません。そこに意義のようなものを書いたつもりでありますので、お目通し頂ければと思います。このように官・民・学の分野は段々この問題に対して動きが出てきた訳であります。

  • 文化遺産防災

    ではなぜこういう事柄が理解されるようになったのだろうか、ということを最後に自分なりに整理したものがありますので、それをお話して終わりにしようと思います。

    文化財の保護というのは、非常に立派な確たる分野(文化財の修復、埋蔵文化財、防火対策、経年変化への対策)が出来上がっています。ところが文化財保護の分野の方々が、見落としていたことが自然災害の問題だったのです。それは先ほど途中でお話しましたが、国立奈良文化研究所の前所長さんもお認めになっています。国の責任者も「そうだ」と言い、うっかり見逃してしていたのです。一方、私どものような自然災害の研究に関わる者はどうでしたでしょうか。自然災害に関わる日本の研究者は1700人程いるのですが、実は私自身、この元締めもしたことがあります。従って殆どのことは承知しているつもりですが、そういう観点から見て文化財や文化遺産とは他のものとは違う、特殊な物、という見方をしたことは有りませんでした。これは正直言わなければなりません。代替性の無いものという見方で物事の重要さが他の物とは格段に違うのだからどうだ、という議論はしてきませんでした。例えば五重塔が地震に対して強い、という個別の議論はありました。しかし、総じて文化財・文化遺産という物を他の物と違ってより安全にするにはどうすべきか、どう考えるべきかという、そういう大きな視点での見方というのを我々はしてきませんでした。従って、それぞれに見逃していたのです。それに今気づいたということです。決して私どもが立派な視点や新たな視点を提示して皆さんを説得している、という話ではないのです。「忘れていませんか、忘れていましたね、あぁそうでした」ということだと私は理解しています。さもなければ、大学の一研究者がやんややんや言ったからといって、国なんて動くものではありません。やはり「言う通り、その通り」ということがあったからだと思います。

  • 社会基盤

    それからもう一つの背景は、社会基盤と言った時に、結局は人間の利便性の追求に資するものであることは間違いありません。これは別に良し悪しではありません。ところが我々の現代の社会というのは果たしてそれだけで社会として成り立つでしょうか。決してそうではありません。人間の心の拠り所を無くして社会とは言わないのではないでしょうか。だったら、もう社会基盤の定義を変えませんか、というのが私がここ数年来言っていることですがなかなか広まりません。

  • 文化遺産防災の勧め

    なかなかそうだとは言って下さいませんが、私は3年前、我が意を得たりと思ったことがあります。それは何かと言いますと、塩野七生さんという作家の方を多くの方ご存知だと思いますが、「すべての道はローマに通ず ローマ人の物語X」(新潮社)の中で彼女は、当時のラテン語に社会基盤という言葉は無い、と書いていました。英語で言うInfrastructureに当てはまる言葉は無い、ということです。敢えて探せば「人間が人間らしく生きるために必要で重要なもの」です。ということは、人間が人間らしいと言うことは、精神活動以外にありません。猿や犬と違うのはそこではないでしょうか。物を食べ、息を吸う、生まれて死ぬ、それは動物も同じですが、唯一違うのは精神活動でしかありません。精神活動が産み出すのが文化です。目に見えざる文化の姿として残っているのが、文化遺産であり文化財です。だとすると人間社会において文化財抜きにして人間の社会というのはおかしい、と私は思います。何故ラテン語、2000年前のローマ人の話を持ち出すのか、と仰るかも知れませんが、キリスト教徒やイスラムなどを問わず、現在の世界の3分の2位はローマ人の時代の物の考え方が、残っているのではないでしょうか。その1つが10年前の湾岸戦争です。日本がどの国よりも多額の戦費を出したにも関わらず、戦後クウェートが世界中の新聞にありがとうございましたという礼状を書いたときに、新聞一面に日本の国はどこにも無いと大問題になりましたね。なぜでしょうか。それは言うまでもなく、ローマ人というのは戦いに行って血を流すのがローマ市民であって、戦費を出すのは奴隷であり属国であり被征服民族である、そのかわり戦争には行かなくて良い、それがベースにあるからではないでしょうか。だからこそ今度の戦争でも小泉さんが派兵したのは、この是非を議論する気はありませんが、そのベースにこれがあったことだけは間違いないと思います。小泉さんだけでなくて彼を支持した日本人の多くはそのことを知っていたからだと思います。そういう世界の流れというのはやはりある訳で、そこから考えても人間の文化や心を大事にしよう、というのが一方にあると私は思います。

  • 3つのバランス

    それがもっとハッキリ見えてきているという人がいます。中西輝政さんという方です。戦後50〜60年の間に日本人は、多くの人達あるいは全体かもしれませんが、物・心に偏り過ぎていました。しかし「文化・歴史遺産・まちなみ」を取り返そう、目を向けよう、と日本人が少しずつ変わりつつあると書いていらして、私はそれを見て我が意を得たりと思いました。心の問題、即ち精神活動であり文化であり文化財ではないでしょうか。私どものような災害をどう防止するかを考えている人間からの切り口で見ると、まさに文化遺産の防災の話、即ち物と心から「文化・歴史遺産・まちなみ」へのシフトが社会全体に起こりつつあり、それが私ども10年間やってきたことの追い風として吹き始めたのかな、と私は理解しております。たぶん時代に逆行していることはないでしょうから、もう少し頑張れば、大勢の人にお願いすればもっとこれは良い流れになるのではないかと思っています。

    こういうことは決して日本の国だけでなく、世界的な観点からもそうだと思います。暫く前にタリバーンがバーミアンの石仏を爆破すると予告しました。その時に「止めろ、止めろ」と世界中の人が言いましたが、爆破してしまいました。そして「あのタリバーンの野蛮人が」となり、アメリカが絨緞爆撃する時に誰も反対しませんでしたね。「あの野蛮人が」という意識が間違いなくあったと思います。

  • イラク国立博物館

    今度のイラク戦争の時にも、戦争が始まった直後か直前だったそうですが、アメリカのお役所の1つ米国国防総省の復興人道支援局(ORHA)が、国立銀行とイラク国立博物館をちゃんと守らないと略奪が起こる、と言ったにも関わらずそれに耳も貸さないで石油省だけ守った、ということで非常に大きな問題になったそうです。日本ではそういうことは余り伝わって来ませんでしたが、そういうことがあったそうです。こういうところを見ても、銀行略奪と同じように文化遺産も略奪される、だから守らなくてはいけない、ということを事前にちゃんと予測して、それに意を尽くそうという人々が世界にはいるということです。そういうのが全体としての頂上にあるように思います。こういう話を私が国際会議のようなところで自分の専門としない分野のところで頼まれて議論しても、何故か西洋の人にこういう話は受けるのです、京都の話が。つたない英語ですが、非常に皆熱心に関心を持って聞いてくれます。やはりこういう文化だとか文化遺産というものを大事にしなくてはいけない、というのが世界的な流れとして背景にあるのだと私は思っています。是非皆様方にもどういう形かは分かりませんが何かの機会にお力添えを頂ければ何よりだと思っている次第であります。

    どうもありがとうございました。(拍手)