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2.ハイパーテキストのアイデアと科学の実用化

     ヴァネヴァー・ブッシュと表記されたりもし、私も最初はそう書いていましたが、正確には、ヴァニーヴァー・ブッシュと発音するようです。この人はコンピュータの歴史のなかでは、ハイパーテキストのコンセプトを考えたということで知られています。
     ハイパーテキストという名前はテッド・ネルソンがつけたものですが、1945年に、ブッシュが雑誌に発表した「私たちが考えるように」というタイトルのエッセイの中でそのアイデアが書かれています。これが、リンクでドキュメントを辿るハイパーテキストのコンセプトの始まりと考えられています。
     テッド・ネルソンは、人間が物を考えるとき、頭の中では、書いたときのように順番に考えるのではなくて、あれこれ飛躍しながら考えている。そのような飛躍を持った思考そのものをドキュメント化することができないかと思って、ハイパーテキストにたどりついたと言っています。
     ブッシュは少し考え方が違い、実は本が売れないからどうすればいいかと悩んでいた私とかなり近いところで発想していました。彼は、必要な情報が出版洪水のなかで埋もれてしまうので、必要な情報が必要な人の手に渡る方法はないかと考えていました。エンドウ豆を使った実験で有名なメンデルの遺伝の法則がありますが、この発見は、何十年も発見されずに埋もれていたそうです。このように科学の成果を埋もれさせてしまうのはまずいと、のちほどご紹介する、情報の新しい検索システムを使ったハイパーテキスト・マシンのアイデアを発表しました。
     このヴァニーヴァー・ブッシュという人は調べれば調べるほど面白い人で、インターネットの歴史を辿るとARPAnet(Advanced Research Project Agency computer network)やNFSnetが出てきますが、ARPA(国防省高等研究計画局)やNFS(全米科学財団)の誕生にも、この人物は深く係わっています。
     1930年代、ヨーロッパでは戦争の機運が高くなってきましたが、その頃のアメリカでは、戦争に巻き込まれたくないというムードが支配的でした。しかし、MIT(マサチューセッツ工科大学)の副学長を務めていたヴァニーヴァー・ブッシュは戦争に巻き込まれずには済まないだろうと思っていた。自分は科学者ではなくエンジニアだと言っていたぐらいで、科学の実用化に関心を持っていた彼は、戦争のためにも科学は役立たせるべきだと考えました。そして、ルーズベルト大統領のところに行って、「科学を兵器開発に使わないと、こんどの戦争に勝てない」と進言し、ルーズベルトの科学顧問に就任する。さらに、原爆開発をしないと、ドイツに先を越されてしまうと、マンハッタン計画と呼ばれる原爆開発計画を立ち上げたのを始め、数々の軍事科学研究を推進しました。研究開発庁という軍事科学研究の部門を設立し、ペニシリンの開発など戦時に役に立つ医療の研究もやっていました。
     マンハッタン計画ではオッペンハイマーやグローブズといった人たちが有名ですが、グローブズはいわば現場の総監督みたいなもので、オッペンハイマーは現場の研究部門の所長といったところですが、このヴァニーヴァー・ブッシュらがその上にいました。 また、ブッシュは、「ディファレンシャル・アナライザー」と呼ばれるアナログコンピュータの研究者でもありました。この装置もまた科学の発展に役に立つ装置で、彼は、科学の応用ということに一貫して関心があったわけです。
     原爆開発は1945年の広島・長崎への投下に至るわけですが、「私たちが考えるように」というハイパーテキストの源になったエッセイもまさにこの1945年に発表されています。大統領の科学顧問として医療から兵器までの研究の元締めで、その説明などのためにヨーロッパなどあちこち飛び回らなければならず、戦争末期は戦後のことも考えなければならず、大変忙しい時期だったわけですが、その時期に、「私たちが考えるように」というエッセイを発表している。なぜ、そんな忙しいときに発表したのか。
     彼は、戦後も含めて、原爆を投下したことについてまったく悔やんだ様子はなく、原爆投下は正しかったと一貫して言っているのですが、原爆を使うと、人々の科学を見る目が変わってくるのではないかということは心配していました。科学は恐いもの、危険なものだと思われるのではないか。だから、みながいいと認めることにも科学が役立つことをしめす必要があると考えて、忙しかったにもかかわらず、なんとかエッセイを発表しようとした。1945年という年に発表することが、とても大事だったわけです。
     「私たちが考えるように」というエッセイは、まず「アトランティック・マンスリー」という雑誌の1945年7月号に発表され、その後「LIFE」誌にも掲載されたのですが、1945年の7月は、トリニティで原爆実験をおこなった月です。「私たちが考えるように」というエッセイの冒頭にも原爆のことが触れられていて、原爆を意識しながら発表したのは明らかです。ハイパーテキストのアイデアは、いわば原爆の双生児だったわけです。
     そのほか、戦争末期には、先ほど少し申し上げましたように、全米科学財団を作ることを考えていました。原爆も物理学の研究の延長で開発され、医療の研究とか、戦争中は軍事に必要ということで、国が科学にずいぶんお金を出したわけですが、戦争が終われば、国は科学にお金を出さなくなる。では、科学にお金がまわるためにはどうすればいいかと彼は考えて、科学助成をおこなうための組織を作りました。
     その一方、彼が長官を務めた研究開発庁というのはARPA(国防省高等研究計画局)の前身で、軍の研究もこのような形で存続させた。
     原爆開発などは軍産科学が協同した巨大なプロジェクトだったわけですが、そうした科学推進体制を戦後どうしていくかを考えて路線をひいたわけで、今日の科学大国アメリカが生まれたのはブッシュの手によるものと言ってもさほど大げさではないと思います。 このように、ヴァニーヴァー・ブッシュは、一方では「私たちが考えるように」というエッセイに見られるように膨大な情報にどのように対処すればいいかを考え、また他方では、原爆開発計画を推進して、アメリカの戦後の科学体制を作りあげたわけです。


    写真1 ヴァニーヴァー・ブッシュとディファレンシャル・アナライザー(MIT所蔵)

     写真1は、ヴァニーヴァー・ブッシュの若い頃の写真ですが、自分の作ったアナログコンピュータ「ディファレンシャル・アナライザー」を操作しているところです。


    写真2 ヴァニーヴァー・ブッシュ、コナントとオッペンハイマー(ハーバード大学所蔵)

     写真2の右端は晩年のヴァニーヴァー・ブッシュです。賞の受賞式のときのもので、真中にいるのがハーバード大学の学長を務めたコナントで、この二人が行政府の内部で原爆開発を推進しました。左がオッペンハイマーです。


    写真3 トリニティーの原爆実験(MIT所蔵)

     写真3は、広報用にあとで撮った「やらせ」の写真らしいのですが、トリニティーでの原爆実験のときのものということになっている写真です。原爆をそのまま見ると目がつぶれてしまうということで、このようにフィルムを目に当てて見ているようです。


    写真4 ヴァニーヴァー・ブッシュとコナント(MIT所蔵)

     写真4は実験が成功して、二人が握手している写真です。


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